1

問題
次の文章を読んで、後問いに対する答えとして最もよいものを、 1.2.3.4から一つ選びなさい。

 

1.①「あんがいそうでもない」とはどういうことか。


  中学生や高校生のなかには、私のところに無理矢理に連れて来られる生徒がある。たとえば、登校拒否の子など、心理療法家のところなど行っても仕方ないとか、行くのは絶対に嫌だといっているのに、親や先生などが時には捕まえてくるような様子で連れて来られる。嫌と思っているのをそんなにして無理に連れて来ても仕方がないようだが、①あんがいそうでもないところが不思議なのである。

  あるとき、無理に連れてこられた高校生で、②椅子を後ろに向け、私に背を向けて座った子が居た。このようなときは、われわれはむしろ、やりやすい子が来たと思う。こんな子は会うや否や、「お前なんかに話をするものか」と対話を開始してくれている。そこで、それに応じて、こちらも「これはこれは、僕と話す気が全然ないらしいね」などと言うと、振り向いて、「当たり前やないか。こんなことしやがって、うちの親父はけしからん…」という具合に、ちゃんと対話が弾んでゆくのである。

  こんなときに私が落ち着いていられるのは、心のなかのことは、だいたい③51対49くらいのところで勝負がついていることが多いと思っているからである。この高校生にしても、カウンセラーのところなど行くものか、という気持ちの反面、ひょっとしてカウンセラーという人が自分の苦しみをわかってくれるかもしれないと思っているのだ。人の助けなど借りるものか、という気持ちと、藁にすがって(注)でも助かりたい、という気持ちが共存している。しかし、ものごとをどちらかに決める場合は、その相反する気持ちの間で勝負が決まり、「助けを借りたい」という方が勝つと、それだけが前面に出てきて主張される。しかし、その実はその反対の傾向性が潜在していて、それは51対49と言いたいほどのきわどい差であることが多い。

  51対49というと僅かの差である。しかし、多くの場合、底の方の対立は無意識のなかに沈んでしまい、意識されるところでは、2対0なら完勝である。従って、意識的には片方が非常に強く主張されるのだが、その実はそれほど一方的ではないのである。

  このあたりの感じがつかめてくると、「お前なんかに話をするものか」などと言われたりしても、あんがい落ち着いていられるのである。じっくり構えていると、どんなことが生じてくるか、まだまだわからないのである。

(中略)

  51対49がもっと接近してきて、50対50に近づいてくると、それに耐えかねたり、何とかごまかしたりするために、④「大きい声」を出す人が多いように思う。最初にあげた高校生の例で、彼らがわざわざ椅子を後ろに向けたりしたのは、これに当てはまる。彼はよほど強い姿勢で、「お前などに話さない」ということを示さないと、「何とか助けて欲しい」方が前面に出て来そうでたまらなかったのだろう。

  こんなときに、相手の「大きい声」につられて、こちらも「大きい声」を出し、「こちらを向きなさい」などと言うと、せっかくの逆転の動きがとめられてしまって、「やっぱり、こんな時にものを言うものか」というふうになってしまう。もっとも、人間は時に本当に「大きい声」を出さねばならぬときもあるので、厳密に言えば、「場にそぐわない大きい声」とか、「不必要な大きい声」を出すときは逆転の可能性が高い、と言うべきであろう。ともかく、勝負を焦ることはないのである。

(河合隼雄『こころの処方箋』による)

 

(注)藁にすがる:頼りにならないものでも頼りにすることのたとえ

  • 1 、1、親や先生に無理やりに連れて来られることが嫌なこと

  • 2 、2、無理やりつれてきても効果がないのにそんなことをすること

  • 3 、3、登校拒否を続けているが、本気で学校が嫌いというわけではないこと

  • 4 、4、しかたがなくて連れて来られるように見えるが、実はそうでもないこと

2

問題
次の文章を読んで、後問いに対する答えとして最もよいものを、 1.2.3.4から一つ選びなさい。

 

2.②「椅子を後ろに向け、私に背を向けて座った子が居た」とあるが、筆者によれば、この動作に高校生のどんな心理状態が表れているか。


  中学生や高校生のなかには、私のところに無理矢理に連れて来られる生徒がある。たとえば、登校拒否の子など、心理療法家のところなど行っても仕方ないとか、行くのは絶対に嫌だといっているのに、親や先生などが時には捕まえてくるような様子で連れて来られる。嫌と思っているのをそんなにして無理に連れて来ても仕方がないようだが、①あんがいそうでもないところが不思議なのである。

  あるとき、無理に連れてこられた高校生で、②椅子を後ろに向け、私に背を向けて座った子が居た。このようなときは、われわれはむしろ、やりやすい子が来たと思う。こんな子は会うや否や、「お前なんかに話をするものか」と対話を開始してくれている。そこで、それに応じて、こちらも「これはこれは、僕と話す気が全然ないらしいね」などと言うと、振り向いて、「当たり前やないか。こんなことしやがって、うちの親父はけしからん…」という具合に、ちゃんと対話が弾んでゆくのである。

  こんなときに私が落ち着いていられるのは、心のなかのことは、だいたい③51対49くらいのところで勝負がついていることが多いと思っているからである。この高校生にしても、カウンセラーのところなど行くものか、という気持ちの反面、ひょっとしてカウンセラーという人が自分の苦しみをわかってくれるかもしれないと思っているのだ。人の助けなど借りるものか、という気持ちと、藁にすがって(注)でも助かりたい、という気持ちが共存している。しかし、ものごとをどちらかに決める場合は、その相反する気持ちの間で勝負が決まり、「助けを借りたい」という方が勝つと、それだけが前面に出てきて主張される。しかし、その実はその反対の傾向性が潜在していて、それは51対49と言いたいほどのきわどい差であることが多い。

  51対49というと僅かの差である。しかし、多くの場合、底の方の対立は無意識のなかに沈んでしまい、意識されるところでは、2対0なら完勝である。従って、意識的には片方が非常に強く主張されるのだが、その実はそれほど一方的ではないのである。

  このあたりの感じがつかめてくると、「お前なんかに話をするものか」などと言われたりしても、あんがい落ち着いていられるのである。じっくり構えていると、どんなことが生じてくるか、まだまだわからないのである。

(中略)

  51対49がもっと接近してきて、50対50に近づいてくると、それに耐えかねたり、何とかごまかしたりするために、④「大きい声」を出す人が多いように思う。最初にあげた高校生の例で、彼らがわざわざ椅子を後ろに向けたりしたのは、これに当てはまる。彼はよほど強い姿勢で、「お前などに話さない」ということを示さないと、「何とか助けて欲しい」方が前面に出て来そうでたまらなかったのだろう。

  こんなときに、相手の「大きい声」につられて、こちらも「大きい声」を出し、「こちらを向きなさい」などと言うと、せっかくの逆転の動きがとめられてしまって、「やっぱり、こんな時にものを言うものか」というふうになってしまう。もっとも、人間は時に本当に「大きい声」を出さねばならぬときもあるので、厳密に言えば、「場にそぐわない大きい声」とか、「不必要な大きい声」を出すときは逆転の可能性が高い、と言うべきであろう。ともかく、勝負を焦ることはないのである。

(河合隼雄『こころの処方箋』による)

 

(注)藁にすがる:頼りにならないものでも頼りにすることのたとえ

  • 1 、1、自分のことを語るのが嫌いで、カウンセラーと面と向かって話したくない心理状態

  • 2 、2、カウンセラーに弱みをつかれるのが嫌いで、本当のことを知らせたくない心理状態

  • 3 、3、カウンセラーに強い姿勢を示すことで彼らに助けてもらいたい気持ちを隠す心理状態

  • 4 、4、自分のことを聞き出そうとするカウンセラーに反発し、相手にしたくない心理状態

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問題
次の文章を読んで、後問いに対する答えとして最もよいものを、 1.2.3.4から一つ選びなさい。

 

3.③「51対49くらいのところで勝負がついている」とあるが、その説明として正しいのはどれか。


  中学生や高校生のなかには、私のところに無理矢理に連れて来られる生徒がある。たとえば、登校拒否の子など、心理療法家のところなど行っても仕方ないとか、行くのは絶対に嫌だといっているのに、親や先生などが時には捕まえてくるような様子で連れて来られる。嫌と思っているのをそんなにして無理に連れて来ても仕方がないようだが、①あんがいそうでもないところが不思議なのである。

  あるとき、無理に連れてこられた高校生で、②椅子を後ろに向け、私に背を向けて座った子が居た。このようなときは、われわれはむしろ、やりやすい子が来たと思う。こんな子は会うや否や、「お前なんかに話をするものか」と対話を開始してくれている。そこで、それに応じて、こちらも「これはこれは、僕と話す気が全然ないらしいね」などと言うと、振り向いて、「当たり前やないか。こんなことしやがって、うちの親父はけしからん…」という具合に、ちゃんと対話が弾んでゆくのである。

  こんなときに私が落ち着いていられるのは、心のなかのことは、だいたい③51対49くらいのところで勝負がついていることが多いと思っているからである。この高校生にしても、カウンセラーのところなど行くものか、という気持ちの反面、ひょっとしてカウンセラーという人が自分の苦しみをわかってくれるかもしれないと思っているのだ。人の助けなど借りるものか、という気持ちと、藁にすがって(注)でも助かりたい、という気持ちが共存している。しかし、ものごとをどちらかに決める場合は、その相反する気持ちの間で勝負が決まり、「助けを借りたい」という方が勝つと、それだけが前面に出てきて主張される。しかし、その実はその反対の傾向性が潜在していて、それは51対49と言いたいほどのきわどい差であることが多い。

  51対49というと僅かの差である。しかし、多くの場合、底の方の対立は無意識のなかに沈んでしまい、意識されるところでは、2対0なら完勝である。従って、意識的には片方が非常に強く主張されるのだが、その実はそれほど一方的ではないのである。

  このあたりの感じがつかめてくると、「お前なんかに話をするものか」などと言われたりしても、あんがい落ち着いていられるのである。じっくり構えていると、どんなことが生じてくるか、まだまだわからないのである。

(中略)

  51対49がもっと接近してきて、50対50に近づいてくると、それに耐えかねたり、何とかごまかしたりするために、④「大きい声」を出す人が多いように思う。最初にあげた高校生の例で、彼らがわざわざ椅子を後ろに向けたりしたのは、これに当てはまる。彼はよほど強い姿勢で、「お前などに話さない」ということを示さないと、「何とか助けて欲しい」方が前面に出て来そうでたまらなかったのだろう。

  こんなときに、相手の「大きい声」につられて、こちらも「大きい声」を出し、「こちらを向きなさい」などと言うと、せっかくの逆転の動きがとめられてしまって、「やっぱり、こんな時にものを言うものか」というふうになってしまう。もっとも、人間は時に本当に「大きい声」を出さねばならぬときもあるので、厳密に言えば、「場にそぐわない大きい声」とか、「不必要な大きい声」を出すときは逆転の可能性が高い、と言うべきであろう。ともかく、勝負を焦ることはないのである。

(河合隼雄『こころの処方箋』による)

 

(注)藁にすがる:頼りにならないものでも頼りにすることのたとえ

  • 1 、1、51%の人はカウンセラーのところに行きたくないのに対し、49%の人はカウンセラーが自分の苦しみを理解できると考えている。

  • 2 、2、何かの物事を決める際、人々は相反する二つの気持ちを持っていて、それが51対49というわずかな差で勝負を決めている。

  • 3 、3、心理療法家のところに相談に来る人の中で、助けを借りたくないと思う人と助けてもらいたいと思う人の割合はそれぞれ51%と49%を占めている。

  • 4 、4、人々は何かに賛成すると同時に、心の中にそのことについて反対する傾向もあり、51対49の場合でしか自分の考えを主張できない。

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問題
次の文章を読んで、後問いに対する答えとして最もよいものを、 1.2.3.4から一つ選びなさい。

 

4.④「『大きい声』を出す人」とあるが、筆者によれば、このような人にどう対応すればいいか。


  中学生や高校生のなかには、私のところに無理矢理に連れて来られる生徒がある。たとえば、登校拒否の子など、心理療法家のところなど行っても仕方ないとか、行くのは絶対に嫌だといっているのに、親や先生などが時には捕まえてくるような様子で連れて来られる。嫌と思っているのをそんなにして無理に連れて来ても仕方がないようだが、①あんがいそうでもないところが不思議なのである。

  あるとき、無理に連れてこられた高校生で、②椅子を後ろに向け、私に背を向けて座った子が居た。このようなときは、われわれはむしろ、やりやすい子が来たと思う。こんな子は会うや否や、「お前なんかに話をするものか」と対話を開始してくれている。そこで、それに応じて、こちらも「これはこれは、僕と話す気が全然ないらしいね」などと言うと、振り向いて、「当たり前やないか。こんなことしやがって、うちの親父はけしからん…」という具合に、ちゃんと対話が弾んでゆくのである。

  こんなときに私が落ち着いていられるのは、心のなかのことは、だいたい③51対49くらいのところで勝負がついていることが多いと思っているからである。この高校生にしても、カウンセラーのところなど行くものか、という気持ちの反面、ひょっとしてカウンセラーという人が自分の苦しみをわかってくれるかもしれないと思っているのだ。人の助けなど借りるものか、という気持ちと、藁にすがって(注)でも助かりたい、という気持ちが共存している。しかし、ものごとをどちらかに決める場合は、その相反する気持ちの間で勝負が決まり、「助けを借りたい」という方が勝つと、それだけが前面に出てきて主張される。しかし、その実はその反対の傾向性が潜在していて、それは51対49と言いたいほどのきわどい差であることが多い。

  51対49というと僅かの差である。しかし、多くの場合、底の方の対立は無意識のなかに沈んでしまい、意識されるところでは、2対0なら完勝である。従って、意識的には片方が非常に強く主張されるのだが、その実はそれほど一方的ではないのである。

  このあたりの感じがつかめてくると、「お前なんかに話をするものか」などと言われたりしても、あんがい落ち着いていられるのである。じっくり構えていると、どんなことが生じてくるか、まだまだわからないのである。

(中略)

  51対49がもっと接近してきて、50対50に近づいてくると、それに耐えかねたり、何とかごまかしたりするために、④「大きい声」を出す人が多いように思う。最初にあげた高校生の例で、彼らがわざわざ椅子を後ろに向けたりしたのは、これに当てはまる。彼はよほど強い姿勢で、「お前などに話さない」ということを示さないと、「何とか助けて欲しい」方が前面に出て来そうでたまらなかったのだろう。

  こんなときに、相手の「大きい声」につられて、こちらも「大きい声」を出し、「こちらを向きなさい」などと言うと、せっかくの逆転の動きがとめられてしまって、「やっぱり、こんな時にものを言うものか」というふうになってしまう。もっとも、人間は時に本当に「大きい声」を出さねばならぬときもあるので、厳密に言えば、「場にそぐわない大きい声」とか、「不必要な大きい声」を出すときは逆転の可能性が高い、と言うべきであろう。ともかく、勝負を焦ることはないのである。

(河合隼雄『こころの処方箋』による)

 

(注)藁にすがる:頼りにならないものでも頼りにすることのたとえ

  • 1 、1、相手の強気な態度に負けずに自分から何かを話しかけるようにする。

  • 2 、2、自分も「大きい声」を出して、相手の注意を引き起こすようにする。

  • 3 、3、彼らが何かの気持ちを抑えているということを理解し、冷静に反応する。

  • 4 、4、不必要な反応を避けて、静かに相手が落ち着いてくるのを待つようにする。

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